FC2ブログ
HOME   »  スポンサー広告  »  スポンサーサイト   »  未分類  »  生きる意味

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


ランキングに参加しています。下のバナーをクリックしていただけたら、ありがたいです。


人気ブログランキングへ

生きる意味

 病との闘いの中で生きる実感は変化していった。前回の記事で内面を客観化する技術について書いたが、この段階ではそれは気分や感覚の問題に止まっていた。しかし、今考えればそれは先に進むための一つの段階だった。そこで、ここではその実感の変化について書いておく。


 生きていることに意味があろうがなかろうが、それは気分に過ぎない。子供の頃は生きていることが無意味に思えて仕方なかった。どうせ死ぬなら何をしても無駄だ。いや、そもそも死のうが死ぬまいが、極論すれば何をしたところで何かを右から左に動かしたり、左から右に動かしたりしているに過ぎない。そう考えると、何も彼もがどうしようもなくむなしかった。しかし、生きていることがどんなにむなしいとしても、それは気分に過ぎない。そして、私が単に気分だけで出来ているわけでない以上、実際にはむなしさという気分に過剰にこだわる理由はなかった。


 病との闘いの中で、自己の内面を客観化する技術を得て始めて、自分自身にもこの世界にもリアリティを持てるようになった。子供の頃は自分が何をしているのかを意識することは出来ても、自分が何を考えているのかは考えることが出来なかった。自分が何を考えているのかわからないのだから、この世界にも自分自身にもリアリティが持てなかった。要するに、この世界も自分自身も曖昧にしか見えず、その場限りの気分や感情や思いつきに翻弄されるばかりだった。そして、自己の内面を客観化する技術を得て始めて、自分自身にもこの世界にもリアリティを持てるようになった。


 生きる意味とは何かが問題なのではなく、生きることに意味を感じられるかが問題だったのだ。生きていることに意味があろうがなかろうが、それは気分に過ぎないと書いた。そのように書くと、何だかそういう問題がどうでもよくなってしまったようだが、そうではない。もっと正確に言えば、自分自身やこの世界に対する確信を得たことで、もはやどうしても生きることが無意味には思えなくなったのだ。それは高度に主観的な感覚であり、生きる実感だ。つまり、生きる意味とは何かが問題なのではなく、生きることに意味を感じられるかが問題だったのだ。


 以上をまとめる。子供の頃は生きているのが無意味に思えて仕方なかった。しかし、内面を客観化する技術により得た自分やこの世界に対する確信によって、生きていることが無意味だとは思えなくなった。それは高度に主観的な感覚だった。しかし、それが気分や感覚の問題に止まっている限り、それ以上先には進めなかった。そのことに関しては、次の記事で書く。



ランキングに参加しています。下のバナーをクリックしていただけたら、ありがたいです。


人気ブログランキングへ

Comment
かっけー!
アイクは俺の嫁さん、こんばんは。

何がかっこいいのかよくわかりませんが、どうもありがとうございます。
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

三室戸弘毅

  • Author:三室戸弘毅
  • 40代。男性。
    うつ病をきっかけに、15の頃から20年以上ひきこもってます。
カテゴリー
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
最近の記事
アルバム
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。