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目的意識の構築 第二回 「病に追い詰められていく中での内面的状況」




 今回は病に追い詰められていく中で、どのような内面的状況にあったかについて書く。まず、どのように病に追い込まれていったかを書いておこう。



 恐れていた無気力に完全に飲み込まれてしまった。結局、逃げきれなかったのだ。いや、むしろ逃げてどうなるものでもなかった。そして、生まれてきたこと自体が間違いだったと思った。意識があるだけで苦痛であり、身体を起こしているだけで辛かった。圧倒的な虚無感と絶望を感じた。しかし、それらの気分だけで意識全体が完全に塗り潰されるわけでもなく、その背後で冷めた思考がカラカラと乾いた回転を続けていた。



 病に陥った後も執念深く勉強を続けようとした。というのも、自らの貧弱な肉体に失望していた私は、身体能力よりも知的能力を重視していたからである。子供の頃は、ただ好奇心から勉強していた。しかし、中学生になる頃には、勉強する目的を考えるようになった。だが、勉強することで、自分がこの世界をどうしたいのかがどうしてもわからなかった。そうこうするうちに、精神を病んだ。そして、何のために勉強するのかわからなくなっていた。いや、むしろ学問とは何のためのものなのかを考えることも、学問に含まれるのだと思うようになった。また、知識を蓄積して、それを上手く組み立てれば、何らかの思想が出来上がり、それが答えを与えてくれるのではないかという期待もあった。



 完全に行き詰ってしまった。病に陥ると、意識があるだけで苦痛となり、身体を起こしているだけで辛くなった。しかし、病に陥っても執念深く勉強を続けようとしていた。だが、虚無感に取り憑かれている限り、何をしても真剣さに欠け、結局全てが暇つぶしか退屈しのぎに過ぎなくなってしまう。だから、何をしても虚しさは募るばかりだった。また、病によって根気を失ってしまったのか、あるいは、思考力が低下しているのか、まるで勉強は捗らなかった。そして、病に全ての能力を封じられた気がした。まるで手足を縛られて、川に投げ込まれた気分だった。



 ここまでをまとめておこう。恐れていた無気力に完全に飲み込まれてしまったが、知的能力を重視する私は執念深く勉強を続けようとした。しかし、虚無感に取り憑かれている限り、何をしても虚しさは募るばかりだった。また、病によって根気を失ってしまったのか、あるいは、思考力が低下しているのか、まるで勉強は捗らなかった。そして、病に全ての能力を封じられた気がした。まるで手足を縛られて、川に投げ込まれた気分だった。



 次に、病の中で抱えていた矛盾について書いておく。



 概念的世界というものは「私」のいない世界だ。それはどういうことか。私は身体能力よりも、知的能力を重視していた。そして、情報を分析して得た知識を蓄積して、それを上手く組み立てれば何らかの思想が出来上がるのではないかと期待していた。ここでいう思想とは、知識を材料に思考によって組み立てられた概念的世界観のことだ。しかし、知識の素となる情報とは私の意志とは無関係に存在し、その蓋然性も私の主観によってではなく、客観的に決まっているものだ。つまり、情報というものを思考の対象としている限り、自分がどういう人間かということを考える必要はない。言い換えれば、概念的世界というものは「私」のいない世界である。



 私は自らの思想に期待し始める。当時の私にとって、思想とは概念的世界観のことだった。そして、概念的世界というものは「私」のいない世界である。だから、私は自分がどういう人間かという自分の具体的性質を問題としようとしなかった。また、概念的世界観を問題としている限り、主体性や意志といった本質的な問題も棚上げしておける。それどころか、むしろ出来上がった思想が何らかの答えを与えてくれると期待すらしていた。



 そこにどのような矛盾があったか。思想というものに期待し始めると、その材料である知識に価値を感じ始めた。知識は情報から作られる。しかし、情報というものは私の意志とは無関係に存在し、その蓋然性も私の主観によってではなく、客観的に決まっている。意志や主体性というものを重視する私が、そのような知識から作られる概念的世界観としての思想というものに答えを期待するということには大きな矛盾があった。



 病の中で抱えていた矛盾とは、つまり意志や主体性を自らの存在の核心であると考えながら、「私」のいない概念的世界観としての思想に答えを期待していたことである。そして、概念的世界観を問題とすることで、主体性や意志といった本質的な問題を棚上げしていた。



 自らの思想に期待していたといっても、私の意識は概念的世界観だけで出来ていたわけではなかった。そこで、最後に当時の直感的実感と主観的実感について書く。



 当時の主観的実感はどうであったか。精神を病み、家にひきこもった。そして、それは私にとって必然であり、ああしていれば良かっただとか、ああだったら良いのにといった後悔や挫折感の入り込む余地のないものに思えた。むしろ、生まれたこと自体が間違いだったのだという圧倒的な虚無感と絶望感があった。だが、やがてこの虚無感は人類共通の課題なのではないかと考えるようになる。そして、生きることがどんなに無意味で苦痛に満ちたものだとしても生き抜く決意をした。また、その決意に運命的なものを感じてもいた。それは、客観的事実というより、主観的実感だった。



 私の私自身に対する感覚は、直感的実感である。私の私自身に対する感覚は、他人に対する判断とは本質的に異なる。例えば、他人のことを「アイツはすごいヤツだ」とか「ありふれた人間だ」などと言うことがあったとする。しかし、私の私自身に対する感覚は自分がどういう人間かという判断以前の、暑いとか寒いなどの感覚と同じ次元の直感的実感だ。また、それは何か運命的で強烈な感覚だった。



 直感的、主観的実感が私を支えていた。確かに、知的能力を重視していた私は、知識を蓄積して、それらを上手く組み立てれば、何らかの思想が出来るのではないかと期待していた。しかし、私の意識はそのような概念的世界観だけで出来ていたわけではなかった。むしろ、運命的といえるような強烈な直感的、主観的実感が全ての始まりであった。また、それらは大きな負荷を私に与えると同時に、私が私である根拠となり、私を支えてもいた。しかし、その実感を客観的に上手く理解できず、自分の存在そのものに疑念を抱かせるほどの混乱も感じていたのである。



 病に追い詰められる中での主観的、直感的実感についてまとめると、圧倒的な虚無感も絶望感も人類共通の課題だと感じていたし、私の私自身に対する感覚も他人に対する判断とは本質的に違う運命的で強烈な感覚であった。そして、それらは私に大きな負荷を掛けると同時に私が私である根拠となり、私を支えていた。



 以上病に追い詰められる中での、私の内面的状況について書いてきた。結局私は恐れていた巨大な無気力に飲み込まれた。しかし、知的能力を重視していた私は、執念深く勉強を続けようとしていた。そして、知識を蓄積して、それを上手く組み立てれば何らかの思想が出来上がるのではないかと期待していた。だが、虚無感に取り付かれている限り、何をしても虚しさは募るばかりだった。また、そこには大きな矛盾があった。つまり、意志や主体性を自らの存在の核心であると考えながら、「私」のいない概念的世界観としての思想に答えを期待していたことである。また、自らの思想に期待していたといっても、私の意識は概念的世界観だけで出来ていたわけではなかった。つまり、圧倒的な虚無感も絶望感も人類共通の課題だと感じていたし、私の私自身に対する感覚も他人に対する判断とは本質的に違う運命的で強烈な感覚であった。そして、それらは客観的事実というより、私の主観的、直感的実感だった。また、それらは私に大きな負荷を与えると同時に私が私である根拠となり、私を支えてもいた。





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Comment
無気力の苦しさ
無気力の苦しさは、どうにもならないほど、根が深いものだと思います。夢、希望は、生きるうえで必要ですね。
whitesagesmudgingさん、はじめまして。

夢、希望とはそもそも何でしょう。
少なくとも、人間以外のその場限りの現実の中で生きている大概の生物は、夢も希望も必要とはしていないように見えます。
はじめまして!
 はじめまして!

 ご存知かもしれませんが、私もうつ症持ちで、10年以上耐えてきましたが、休職を体験し、いまは、会社のご配慮でリハビリ中の身のものです。

 さて、私は、恥ずかしながら、地元の小学生の子供たちに球技の指導を行っていたりします(一時期は、監督も務めました)。毎年、6年生が卒業するタイミングになりますと、記念にメッセージを指導者達から贈るのですが、私は、いつも、ボールに“夢・勇気・氣力”と書いて贈ります。人間夢(具体的には、明確な手の届く目標)を持て、それがしっかりしていれば、勇気を持ってトライできるはず(何を行うにしても、逃げたくなるような場面が必ずあるはずだが、そこで、勇気を出せ!逃げるな!)、そして、一番重要なのは、氣力!これは、自分で決めたことなのだから、最後まで諦めるな!諦めてしまったら後悔だけが残ってしまう。また、夢に届かないことを自分以外のせいにしてはいけない!と言った感じのメッセージです。

 私は、人間だからこそ、人それぞれいろいろな夢を持てるのであって、それはとてもすばらしいことだと思っています。そして、明確な夢を持って、それに向かって努力している姿は、その人を輝かしているはずです。
 先にも、書かせてもらいましたが、大前提は、夢は理想であっては駄目で、自分を見つめて手の届くところのものでなければいけません(他人よりだいぶ低い目標でもいいのです、そのような目標を持てる人の方が自分を良く理解している人かと思います)。人は、夢を達成できると達成感を持ち、次への意欲が沸いてきます。逆に、目標が勝負事ですと、必ず敗者がいる訳ですが、それはそれで、悔しさというすばらしい経験を得て、次の目標の達成に生かされていくものです。そして、いろいろな理由で、早く人生を歩む人、ゆっくり人生を歩むことになる人、ゆっくりだったが、何らかのきっかけで、急に早くなる人等、これまた、年をとれば取るほど、いろんなパターンがでてきます。それは、すばらしい頭脳を持つようになった人間ならではのバラツキなのでしょう。

 ところで、人間以外の動物、植物、昆虫等も含めても、私からみれば夢(しっかりとした目標)を持って、皆、必死に生きていると思っています。大げさに言えば、中途半端に生きている人間よりは輝いて見えます。漠然と生きている生物なんて、私は、人間の何割かだけであって、その他の生物には、逆に、居ないのかと思っています。何も、目的が無かったら、がんばって生きようなんて考えないはずで、そのような生物は、この世から居なくなる運命でしょう。

 ちなみに、私は、ベジタリアンが嫌いです。動物と植物を差別していると思いませんか?

 最後に、弘毅さん、一度、肩の荷を降ろして、まだお若いのですから、ゆっくり、次のことを考えてみてはいかがでしょうか?
 弘毅さん自身の人生なのですから、自分が主人公となるべき人生の夢を描き直してみてはいかがでしょうか?それも具体的にです。もちろん、他人の人生と全然違ってもいいのです。弘毅さんの人生なのですから......。中学生のときには、みつけられなかったのかもしれませんが、いまなら、勉強する目的を見つけられるのではないでしょうか?
 
フォローになってないかもしれませんが、ちなみに、私が、うつ持ちになった要因は、弘毅さんの要因とは異なることも述べておきます。まあ、私も、一度こけて、いま、人生の再設計中というところです。
 40代半ばのおじさんからの長文、深くお詫び申し上げます。
 
sensationlogさん、はじめまして。
丁寧なコメントありがとうございます。

ここまで書いてきたことは、これから書こうとしていることの前提となる導入に過ぎません。
中学生の頃にはわからなかったことが、今ならわかる。
当然です。
それをこれから書こうとしているのですが、
どうも上手くまとめられなくて難儀しています。

ところで、まず夢や希望についてですが、
それらは目の前の現実に対する感情ではなくて、
自分の中に描いた現実とは別の未来のイメージに対する感情です。
生物というものは驚くほどの多様性を持っているので、
こんな大雑把な言い方に意味はありませんが、
大概の生物は目の前の現実しか見えていないと思います。
例えば、昆虫の意識は直感と衝動だけで出来ているのではないでしょうか。
もちろん昆虫にも記憶や未来の予測はありますが、
それは自身の感覚や欲求を含めた目の前の現実と関連して瞬間的に想起される直感的なものであり、
自覚的に記憶や思考を組み立てて作り上げた過去や未来のイメージというものとは違います。
そして、直感と衝動だけで動いているからこそ人間よりも反応速度が速く、俊敏に動けるのだと思います。
また、それが彼らが一瞬一瞬全力で懸命に生きているように見える理由でしょう。
したがって、全ての生物が人間が言うところの夢や希望をもって生きているわけではないと思います。
また、生物というものは驚くほど多様なものなので、
必ずしも人間と同じ意味で夢や希望を持って生きていると考える必要もないと思います。

次に目標についてです。
確かに目標を持つことは大事です。
しかし、それは言うほど簡単なことではありません。
なぜなら、単なる思い付きや先入観だけで目標を設定しても、
行き当たりばったりなだけでいずれ行き詰るからです。
それは手が届くとか届かないとか、
逃げるとか、諦めるとかいう以前の問題です。

最後に改めて真摯なコメントに感謝いたします。
真摯な発言?
 う~、このようにレスされると返す言葉は、あまりありませんね!
 一つだけ、目標を持つことは、自分をわかっていればそんなに難しくは無いと私は思っています。つまり、“単なる思い付きや先入観だけで目標を設定しても、”ではありません。
 難しく考えすぎて、目標を持てないから、前へ進めないのかと感じただけですね!
 それでは、たぶん、もうレスしません。
sensationlogさん、気分を害されたのなら申し訳ありませんでした。
はじめまして。嵩原と申します。

たまに、読ませていただいております。

私も、かなりややこしい人間で自分の自我と
ある程度うまくつきあって行くのに
かなりの労力と時間をかけた方の人間だと
思っています。

弘毅さんの苦しさは
もちろん弘毅さんだけのもので
私に理解できるわけでは
ありませんが、

私の経験上
いろいろ試した結果、案外有効なのは
頭のなかが考えすぎてぐちゃぐちゃな時は
体に、主導権をゆずることでした。

難しいけど、何も考えない。
疲れきるまで、無心に体を酷使する、
そして、夜は早めに ただ眠る。
朝に起きるようにする、体操レベルでもいいから
体をうごかす。

生に意味をもとめない。
ただ、生活をする。

無駄に思えるその行為の
積み重ねの中に、
意外と生き物としての自分のリズムが
自分を支えてくれる事に
気づいたりします。

すいません。よけいなお世話かもですね。

ただ、苦しそうなので
書いてしまいました。すいません。

では。
嵩原ツカタさん、はじめまして。

まず、記事の内容が心配させてしまうものだとしたら、
申し訳ありません。
そして、これはかなり前の状況であって今とは違います。
また、私の場合考えすぎというより、
考えが足りなくて思考があまりに曖昧なのです。
しかし、思考の目は時間とともに細かくなってきているので、
心配には及びません。

次に、身体についてです。
嵩原さんのおっしゃっていることと同じことかどうかはわかりませんが、
実は肉体に目を向けるということについては、
これから書こうとしているところです。
しかし、いろいろ新たな現実感が生じてきてしまって、
なかなか上手くまとめられなくて困っています。
よかったらまた見てください。

それでは。
わかりました。

また、ときどき読ませていただきます。

あと、『新たな現実感が生じてきて~』ということですが、
友人で劇団で作品を書いている人が言ってた話ですが

作品を書く時は、
調べられるだけ調べてここまでって
どこかで区切りをつけて、
ここから後に新事実が出てきてもしょうがない、
そこは割り切って前に決めた所までで作品を完成させるんだとか。

そう、決めないと、
形が曖昧になって
本来表現したかったものの強さが出ないのかもしれないですね。

では。また。
嵩原ツカタさん、返信ありがとうございます。

今考えていることを明確にするために、
過去を振り返っています。
しかし、書き始めてみると記憶や理解の曖昧だったり、矛盾する部分が出てきます。
そして、またいろいろ考え直さなければならないことが出てきてしまいます。
いや、もしかするとそもそも実は何が書きたいのか明確ではないのかもしれないですね。
その辺りまた考えてみます。
アドバイスありがとうございました。
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プロフィール

三室戸弘毅

  • Author:三室戸弘毅
  • 40代。男性。
    うつ病をきっかけに、15の頃から20年以上ひきこもってます。
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