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感覚と理性、そして意志



 「生々しいさみしさ」で書いたように、私は自分を偉大であると思いたがるばかりだった。そして自分が何者で、どのような人間であるかということを真剣に考えることはなかった。しかし行き詰まり、さみしさを覚えた私はそのような自分の個人的内面と向き合うことにした。しかしそのことについて書く前に、今回は感覚と理性、そして意志について整理しておこうと思う。内容としては「なぜ虚無感は消えたのか」と「葛藤の中での冷静さ」の補足と訂正という形になる。



感覚と理性



 「葛藤の中での冷静さ」で、肉体と精神の二元論のようなものを持ち出した。しかし、精神という言葉は漠然としていて、何を指しているのか明確でない。だからまずその点について、補足と訂正をしておく。



 自分の貧弱な肉体を軽蔑し、理性を重視していた。確かに、肉体と精神の二元論のようなものを持ち出した。しかし、精神という言葉は曖昧に過ぎる。そこで、子供時代に感じていたことを端的に表現すれば上のようになる。例えばいくら身体を鍛えても空は飛べないが、理性が生み出した科学技術によって我々は月まで行けるといった具合にである。また五感によってよりもさまざまな計測機器によって、我々はこの世界をより精密に知ることが出来る。



 意識上で肉体は感覚として存在し、また感覚と理性は別のものである。まず自分の肉体があるとわかるのは、この世界や自分の身体を見たり、それらに触れたり出来るからである。すなわち、意識上では肉体は感覚として存在する。また、感覚と理性は別のものである。なぜならそれは例えば夕日が赤いのは考えるまでもなく見ればわかるが、なぜ夕日が赤いのかは理性によって知られるのであって、感覚によって知ることは出来ないことでわかる。



 したがって、感覚より理性を重視したと言った方が適当である。確かに肉体より理性を重視したと書いた。しかし、二元論的に肉体と理性を対置するのはおかしい。なぜなら、理性は肉体の機能の一部とも考えられるからである。すなわち、肉体と理性はそれぞれ別の独立した存在とは言えない。そして先に書いたように、私にとって肉体は意識上では感覚として存在する。また、感覚と理性は別のものである。つまり感覚も理性も肉体の機能だが、意識上では別のものだということである。



 要するに、私は感覚より理性を重視したのである。子供のころは自らの貧弱な肉体を軽蔑し、理性を重視していた。しかし理性は肉体の機能の一部と考えられ、肉体と理性はそれぞれ別の独立した存在とは言えない。だから肉体と理性を、二元論的に対置するのはおかしい。また肉体は意識上では感覚として存在する。そして、感覚と理性は意識上では別のものである。したがって、感覚を理性と対置させる方が適切である。



具体的、個別的状況の中での個人としての意志



 次に意志について書く。ちなみに「葛藤の中での冷静さ」で精神を自らの存在の核心であると考えていたと書いたが、精神よりも意志といった方が適切だろう。つまり自分の意志で考え、行動していると思っていたのである。



 感覚と理性によって、世界を把握、認識しようとしていた。まず世界が存在するとわかるのは、それを見たり、それに触れたり出来るからである。すなわち、世界は意識上で感覚として存在する。そしてそれは目の前の具体的、個別的状況と言える。また理性によって思考を緻密に組み立て、新たな世界観を構築しようともしていた。そしてそれは具体的、個別的状況に対して、普遍的なものと言えた。



 中学生になるころ、具体的、個別的状況の中での、個人としての意志というものを問題とするようになった。当初は、感覚より理性を重視した。また特に目の前の具体的、個別的状況に対する思考よりも、理性の抽象的、論理的側面を重視した。つまり思考を緻密に組み立て、普遍的世界観を構築しようとしていたのである。しかしやがてそのようにして世界を認識することで、結局自分は何をしたいのかと考えるようになったのである。



 ところが自分の意志が、どこから、どのようにやって来るのかわからなかった。なぜならまるで思いつきか気紛れのごとく、意識上に生じては消える感情と思考があったからである。そしてそれらが意志を形づくっているように感じられたのである。だがその感情と思考が、どこから、どのようにやって来るのかがわからなかった。つまり意志の背後には、自分でも把握できない広大な領域があったのである。そして、それはいわゆる潜在意識や無意識というものだろう。



 つまり中学生になって 具体的、個別的状況の中での、個人としての意志というものを問題とするようになったが、その意志というものが、どこから、どのようにやって来るのかがわからなかったのである。すなわち感覚と理性によって世界を認識しようとしていたが、そのように世界を認識することで自分は何をしようとしているのかと考え始めたのである。しかし自分の意志がまるで思いつきか気紛れのごとく、意識上に生じては消える感情と思考から形づくられているように思われたのである。



非理性的なものへの関心の集中



 虚無感に飲み込まれた後も、考え方の傾向は変わらなかった。すなわち、感覚よりも理性を重視し続けたのである。しかし、行き詰った。だから考え方を変え、非理性的なものに関心を集中することにしたのである。最後に、そのことを書く。



 具体的、個別的状況の中での個人の意志という問題と、正面から向き合えずにいた。なぜなら具体的、個別的状況より、普遍的世界観を重視していたからである。しかし自分の意志がどこから、どのようにやって来るのかわからないということは、自己の存在そのものを揺るがす問題である。なぜなら、意志こそが自らの存在の核心であると考えていたからである。そして、それが虚無感を生んだ。したがって、その状況を何とかする必要があった。



 非理性的なものに、関心を集中することにした。なぜなら、理性を重視するだけでは状況を打開できなかったからである。そして非理性的なものとは、感覚と感情、思考、そして意志のことである。なぜなら理性が思考を自覚的に組み立てる能力であるとすると、感覚も、どこから、どのようにやって来るのかわからない感情や思考も理性とは言えないからである。また感情と思考から形づくられる意志も、非理性的なものである。



 普遍的世界観の構築を目指した私が、自分の個人的な内面に目を向けるようになったのである。また意志の背後の領域の問題は、保留することにした。というのも意志が感情と思考から形づくられるとして、またそれらがどこから、どのようにやって来るのかわからないとしても、なぜそう感じるのか、なぜそう思うのかについては考えることが出来るはずだからである。 またそれは自らの存在の核心であると考えていた意志を、相対化、対象化することであった。



 要するに理性を重視するだけでは状況を打開できず、非理性的なものに関心を集中することにしたのである。当初具体的、個別的状況の中での個人の意志という問題と、正面から向き合えずにいた。しかし、その状況を変える必要があったのである。また意志の背後の領域の問題は保留し、意識上の感情と思考について、なぜそう感じるのか、なぜそう思うのかを考えることにした。すなわち普遍的世界観を重視するだけでなく、自分の個人的な内面にも目を向けるようになったのである。



まとめ



 以上ここまで書いてきたことをまとめれば当初感覚より理性を重視したが、行き詰った状況を打開するために非理性的なものに関心を集中することにしたということになる。そして非理性的なものとは、感覚と感情、思考、そして意志のことである。なぜなら理性が思考を自覚的に組み立てる能力であるとすると、感覚も、どこから、どのようにやって来るのかわからない感情や思考も理性とは言えないからである。また感情と思考から形づくられる意志も、非理性的なものである。



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