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現実感の明瞭化

 


 「感覚と理性、そして意志」で、非理性的なものと向き合うことにしたと書いた。そしてまず行ったことは、感覚への意識の集中であった。もちろん非理性的なものとは、感覚だけを指しているわけではない。だがとりあえず取り組めたことが、それだったのである。そして感覚への意識の集中の結果、現実感が明瞭化した。その結果何を考え、何が起きたのか。今回は、それらのことを書こうと思う。ちなみにこれは「生々しいさみしさ」の直後のことで、20代半ばの話である。



全身を覆う不快感



 とりあえず全身を覆う不快感を、何とかすることにした。しかし、それまではその不快感となかなか向き合えずにいた。まず、そのことについて書こうと思う。



 それまで全身を覆う不快感と向き合えずにいた。なぜなら、それが私に挫折と屈辱を与えるだけの邪魔なものとしか思えなかったからである。つまりそのような無駄なものを相手にすることに、意味を見い出せなかったのである。そもそも私の身体は子供のころから、重くだるかった。例えば頭は鉛が詰まったかのように重く、常に締めつけられるように痛かった。また肩や腰もだるく、痛かった。そのせいで、集中力と根気に欠ける子供だった。



 とりあえずその不快感を何とかすることにした。確かに不快感を相手にすることに、意味を見い出せずにいた。そしてその不快感を無視して、意志の力で重い心と身体を無理やり引きずることしか考えていなかった。しかしそのように不快感を無視して、無理やり自分を引きずろうとすればするほど、疲れて不快感は増すばかりだった。つまりそれを無視して無理やり自分を引きずって行こうとしても、それは不可能だったのである。



 そして、考えたのが感覚への意識の集中であった。つまり「生々しいさみしさ」や「感覚と理性、そして意志」で非理性的なものに向き合うことにしたと書いたが、まず行ったのが感覚への意識の集中だったのである。そして「感覚と理性、そして意志」で書いたように、肉体は意識上で感覚として存在している。つまり、肉体的不快感は意識上で感覚として存在する。したがって感覚に意識を集中することで、肉体的不快感を制御しようと考えたのである。



 つまり、とにかく全身を覆う不快感を何とかすることにしたのである。そして、感覚に意識を集中することで、肉体的不快感を制御しようと考えた。とはいっても、以前はその不快感と向き合うことが出来ずにいた。なぜなら、それが私に挫折と屈辱を与える邪魔で無駄なものにしか見えなかったからである。しかしその不快感を無視して無理やり重い身体を引きずって行こうとしても、疲れて不快感は増すばかりだったのである。



現実感の明瞭化



 次に感覚への意識の集中とは具体的にどういうことで、その結果何が起こったのかについて書く。



 感覚に意識を集中するというのは瞬間瞬間の断片的感覚に集中することで、それらが統合された現実感全体を明瞭化することである。つまり常に現実感全体を意識しているわけではない。むしろ瞬間瞬間に感じているのはその断片である。例えば歩いているとき瞬間瞬間に感じているのは、呼吸であったり、地面を踏みしめる感覚であったりする。そして時間の流れの中でそれらの断片的感覚を統合することで、あるとき、ある場所を歩いているという現実感が意識上に構築されるのである。



 やがて魅力的な激しさを感じるようになった。感覚への意識の集中とは、具体的には自己流の瞑想と散歩だった。しかしそれらは私にとって重荷であり、まさに身体が軋むようであった。だがそれで壊れるのなら、壊れてしまえばいいと思った。つまりそれだけ自分の置かれた状況に、強い怒りを感じていたのである。そしてその怒りは私の血を滾らせ、体温は38度前後まで上昇した。また少し身体を動かすだけで、むりむりと筋肉がつくようになった。



 それだけの激しさがあれば、全身を覆う不快感を振り切れるのではないかという目眩がするほどの期待を感じた。とは言ってもそのような一種の興奮状態は一時的なもので、すぐに疲弊してぐったりした。むしろほとんどの時間は、ぐったりしていた。そして、そのような興奮と疲弊を繰り返したのである。しかしもっと鍛えれば、その激しさを維持できるのではないかとも考えた。つまりその新たな感覚を土台に、新たな自分を作り上げようと考えたのである。



 要するに瞬間瞬間の断片的感覚に集中することで、現実感を明瞭化しようとしたのである。そして、感覚への意識の集中とは、具体的には瞑想と散歩であった。しかし、それらは私にとって重荷であった。だが自分の置かれた状況に対する怒りは私の血を滾らせ、魅力的な激しさを生み出した。そしてそれだけの激しさがあれば、全身を覆う不快感を振り切れるのではないかという目眩がするほどの期待を感じた。そしてその感覚を土台に、新たな自分を作り上げようと考えたのである。



現実感の相対化



 現実感の明瞭化によって、新たな肉体を獲得したかのように感じた。しかし、その感覚はすぐに相対化された。最後に、そのことについて書こう。



 現実感の明瞭化という新たな感覚の獲得によって、新たな肉体を得たように感じた。なぜなら先に書いたように、意識上で肉体は感覚として存在するからである。また子供のころから周囲の空間を感じきれないような、奇妙な感覚的不全感を抱いていた。しかし感覚に意識を集中することで、指の一本一本にまで生きる実感を持ったし、周囲の空間の隅々まで感じ取れるようになった気がした。つまり、壁をひとつ突き破った気がしたのである。



 新たな肉体の獲得という感覚を土台に、新たな自分を作り上げようと考えた。しかしその感覚自体が、私を疲弊させた。だがもっと鍛えれば、その興奮と高揚感を維持できるのではないかと考えたのである。また「感覚と理性、そして意志」で書いたように、意識上で感覚と理性は別のものだと考えていた。しかし同時にその意識自体が、肉体の機能であるとも考えていたのである。だから新たな肉体を土台に、新しい自分を作ろうと考えるのは当然に思えた。



 しかし、新たな肉体の獲得という感覚はすぐに相対化された。なぜなら「感覚と理性、そして意志」で書いたように客観的事実としては意識は肉体の機能であり、肉体がなければ存在し得ないと考えていても、主観的にはあくまでも肉体は感覚として意識の構成要素のひとつであり、意識の一部分に過ぎないからである。要するに肉体を土台に自分を形づくろうといっても、主観的には肉体は感覚として意識の一部に過ぎないのである。



 つまりまず現実感の明瞭化という新たな感覚の獲得は、新たな肉体の獲得でもあるように感じられたのである。そしてその感覚を土台に、新たな自分を作り上げようと考えた。しかし、その感覚はすぐに相対化された。つまり客観的事実としては意識は肉体の機能であり、肉体がなければ存在し得ないと考えているにも拘らず、主観的にはあくまでも肉体は感覚として意識の構成要素のひとつであり、意識の一部分に過ぎなかったのである。



まとめ



 つまり感覚への意識の集中により、現実感は明瞭化したのである。そしてその感覚を土台に、新たな自分を形づくろうと考えたのである。しかし、新たに獲得された感覚はすぐに相対化された。まず当初から全身を不快感が覆い、私に挫折と屈辱を与えていた。だからその肉体的不快感を、感覚に意識を集中することで制御しようとしたのである。そして感覚への意識の集中とは、瞬間瞬間の断片的感覚に集中することで、現実感を明瞭化することだったのである。



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