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自己と理性と感覚




 今回は自己と理性と感覚について、まとめてみる。なぜならそれらのことについて前もってまとめておかないと、今後述べようとしていることが曖昧になってしまうからである。ただし、今回述べることは「現実感の明瞭化」当時、すなわち20代半ばに考えていたことである。つまり、必ずしも現在の考えとは一致しない。そしてその変化を描くために、今回当時の考えをまとめておくのである。



自己という観念



 やがて自分が自分でないような混乱に陥るのだが、まずそもそもその自己という観念がどこから来たのか自分なりにまとめておこう。



 言葉の存在によって、客観的事実としての世界を知ることになる。つまりまず我々は言葉によって、自分が直接経験していないことを知ることが出来る。そしてこの世界には自分の知らないことが、たくさんあることを知る。しかし言葉がなければ目の前の知覚としての世界があるだけで、自分の知覚していないことは存在しないも同然である。すなわち言葉によって、自分がいなくても存在する客観的事実としての世界を知るのである。



 言葉の存在によって、自己の内面が生まれた。つまりまず言葉がなければ目の前の知覚としての世界があるだけで、自己の内面と自分がいなくても存在する客観的事実としての世界の区別がつかない。また言葉によって、人間がそれぞれ独自の知覚と知識を持った存在であることを知る。しかし言葉がなければ自分以外の人間がいても、それは草木や鳥や獣と同じように環境の一部に過ぎない。 要するに言葉によって、自己と他者の内面の区別を知るのである。



 自己という観念は、明確に定義されたものではなかった。つまりそれは私がいなくても存在する客観的事実としての世界に対置されるものとして、そこから漠然と連想されたものである。また自己の存在そのものと内面を、この時点では概念的に明確に区別してはいなかった。そして、内面に自己の存在はあると考えた。なぜなら意志こそが、自己の存在の核心だと考えていたからである。そして内面に生じては消える、感情と思考が意志を形づくっている。



 要するに言葉によって客観的事実としての世界を知り、その客観的事実に対置されるものとして自己という観念が漠然と連想されたのである。すなわち自己という観念は、明確に定義されたものではないのである。また言葉によって、客観的事実と自己の内面の区別を知った。しかし自己の存在と内面を、概念的に明確に区別していたわけではない。そして、内面に自己の存在はあると考えた。なぜなら、意志こそが自己の存在の核心だと考えたからである。



理性の対象



 次に理性の対象について述べる。なぜならこの先に述べる理性の意識上への浮上による混乱は、その理性の対象が何であるかによるからである。



 人間は知覚から、思考を切り離すことが出来るようになった。そしてそれは目の前の知覚としての世界とは別に、自分がいなくても存在する客観的事実としての世界というものを想像することを覚えた結果である。例えば人間は道具を製作する。それは手探りで何かを捜すといったこととは違う。つまり目の前の知覚としての世界から思考を切り離して、こうしたらもっと上手くいくのではないかと意識上でいろいろ考えて工夫する必要がある。そして、それが理性の起源であろう。



 理性の対象は概念である。言葉を覚えるということはさまざまなものに名前をつけ区別し、それらに種々の説明を加えていくことである。すなわちこの世界を構成する事物を概念化していくということである。しかしそれだけでは、この世界は雑多な概念の集合でしかない。だからそれらの概念を組み立て、統一的で普遍的な世界観を構築しようとした。そして理性が思考を自覚的に組み立てる能力だとすれば、理性の対象はこの概念化されたものたちである。



 理性の対象は、自己の内面の外部の客観的事実である。なぜならまず理性によって概念を組み立て普遍的世界観を構築できれば、その世界観によって目の前の具体的状況を理解し、判断できる。そして私個人の内面と関係なく、その具体的状況の中で何をすべきかは自ずと明らかなはずだからである。またそれは感覚に頼って当てもなく、手探りで何かを捜すのとは違う。だから理性の対象は目の前の色や形や手触りではなく、概念なのである。



 つまり理性の対象は概念であり、自己の内面の外部の客観的事実である。なぜなら、まず人間は知覚から思考を切り離すことが出来るようになった。それが理性の起源であろう。また言葉を覚えるということは、この世界を構成する事物を概念化していくことである。人間はそれらの概念を組み立てて、普遍的な世界観を構築しようとする。そして普遍的世界観を構築できれば、それによって個人の内面とは関係なく何をすべきかは自ずと明らかなはずだからである。



感覚への意識の集中



 最後に感覚への意識の集中について改めて述べておこう。なぜならそれまで受動的に捉えていた感覚を、自覚的に意識することがその後の変化のきっかけとなったからである。



 自己の内面を中心とした同心円構造を考えていた。まず、言葉によって自己の内面が生まれた。そして、その内面の内に自己の存在がある。そして、自分の意志で動かせる自分の肉体の周囲に世界は広がっている。またその世界の中を移動できるのは、その肉体によってである。したがって、その肉体の内部に自己の存在はあると考えた。そして自己の内面で形づくられる意志によって肉体を動かし、周囲の世界に働きかけている。



 感覚を受動的に捉え、それを自覚的に意識することはなかった。なぜなら、感覚を内面の外部の客観的事実の単純な反影と見ていたからである。つまり感覚の向こうに客観的事実があり、感覚がそのまま客観的事実を表していると考えていた。例えば色や形は眼球の内部で感じているはずなのに、眼球の外部に色や形があるように感じるようなものである。だから単なる客観的事実の反影である感覚に働きかけたところで、そのことによって何が起こるとも思えなかったのである。



 しかし「現実感の明瞭化」で述べたように、感覚に意識を集中した。なぜなら、まず自己の存在は自己の内面にある。そして、内面は自己の肉体の内部にある。したがって肉体は世界を構成する他の事物よりも自己から見て距離的に近いはずであり、他の事物とは違う特別な意味を持つはずである。そして「感覚と理性、そして意志」で述べたように自己の肉体は、意識上で感覚として存在する。だから、とりあえず感覚に意識を集中したのである。



 要するに客観的事実の単純な反影と考え受動的に捉えていた感覚を、自覚的に意識することにしたのである。なぜなら自己の存在は肉体の内部にあり、肉体は自己から見て他の事物とは違う特別な意味を持っているはずだからである。すなわち自己の内面を中心とした、同心円構造を考えていたのである。そして、肉体は感覚として存在する。しかしかつては単なる客観的事実の反影である感覚に働きかけたところで、何が起こるとも思えなかった。



まとめ



 自己と理性と感覚についてまとめてみた。まず言葉によって自分がいなくても存在する客観的事実としての世界を知り、その客観的事実に対置されるものとして自己という観念が連想された。そして言葉を覚えるとは世界を構成する事物を概念化することであり、理性の対象は概念である。また自己の存在は肉体の内部にあり、肉体は他の事物とは違う特別な意味を持っているはずである。そして、肉体は感覚として存在する。だから、感覚に意識を集中することにしたのである。



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