FC2ブログ
HOME   »  スポンサー広告  »  スポンサーサイト   »  考察  »  神との駆け引きとそれによる変化

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


ランキングに参加しています。下のバナーをクリックしていただけたら、ありがたいです。


人気ブログランキングへ

神との駆け引きとそれによる変化




 今回は神との駆け引きとそれによる変化について、考える。なぜならその変化により、私にかかる負荷が増大したからである。そしてそれに耐え得るだけの気力と体力を身に付けることが、現在の課題である。ちなみに目の前の状況との距離の大きさと、それによる感覚や思考の処理工程の多さが、私と私以外の大多数の人間との違いである。とはいえ実際には人間とあまり関わったことがないため、本当にそこに差があるのかわからない。



神との駆け引き



 まず神との駆け引きについて、述べねばならない。なぜならそれにより後に述べる致命的問題が解決するとともに、私にかかる負荷が増大したからである。



 神という概念を導入した。つまりまず感覚に意識を集中すると、世界は「なぜ虚無感は消えたのか」で述べたような単なる雑多な事物の集積ではなく、自律した意志を持った生々しい存在に見え始めた。しかもその意志と私の内面は、密接に関係し合っていた。またそれは自己の内面に直接腕を突っ込まれ、操られているような衝撃だった。そしてその混乱を静めるために、その世界の意志を神であると考えることにしたのである。



 混乱は静まった。すなわち、納得したのである。なぜなら神がこの世界を支配する存在だとすれば、私の内面だけが神からの影響を免れるわけがないからである。つまり私の内面も、神から介入や干渉を受けているはずである。したがって自己の内面に意識を集中し、自らの感覚とそれに対する思考に自覚的になるということは、神の意志を読み取ることである。だから感覚に意識を集中すると、世界が自律した意志を持って動いているように見えたのである。



 神と一対一の駆け引きが可能となった。なぜなら神の意志を読み取るということは、それから一方的に影響を受けるのではなく、一定の距離を取るということでもあるからである。そして駆け引きとは押したり、引いたりの密着した手応えである。また神とは、この世界を支配する存在である。したがって神との駆け引きとは、世界そのものとの駆け引きとも言える。またそれは空間的、時間的距離とは関係なく、目の前の一点の手応えの中に世界全体を感じ取ることである。



 要するに感覚に意識を集中することで感じた世界の意志を神であると考えることで、神との駆け引きが可能となったのである。なぜなら神がこの世界を支配し、私の内面に干渉しているなら、自らの感覚とそれに対する思考に意識を集中するということは、神の意志を読み取ることだからである。したがって感覚に意識を集中することで、世界が自律した意志を持っているように見えたのは当然である。そして神との駆け引きとは、目の前の手応えの中に世界全体を感じ取ることである。



致命的問題の解決



 次に主体性への疑問とそれによる虚無感という、致命的問題の解決について述べる。そして後に述べるように、私にかかる負荷は増大した。



 自己の存在と世界は分裂していた。なぜなら人間は空間的に離れた場所や、時間的に離れた過去や未来を想像できるからである。いわば過去、現在、未来を含めた世界全体を、一塊として見ている。しかしそれはあくまで想像である。すなわち空間的、時間的に離れた場所を直接見たり、そこにあるものに触れたりは出来ない。また当然空間的、時間的に離れた場所に私はいない。ひいては自分の存在しない世界を、想像できてしまうのである。



 自分を含んだこの世界そのものの存在意義に関わる、致命的問題を抱えた。つまり、まず自己と世界が分裂した。そして自分の意志で考え、行動し、周囲の世界に働きかけていると感じた。しかしその自分の意志が、一体どこから、どのようにやって来るのかがわからなかった。すなわち「なぜ虚無感は消えたのか」で述べたように、主体性への疑問を抱えたのである。そして、それが虚無感を生んだ。いわば自分も世界も、単なる雑多な事物の集積に過ぎなかったのである。



 しかし、その致命的問題は解決した。なぜなら先に述べた神との駆け引きとは、空間的、時間的距離と関係なく、目の前の手応えの中に過去、現在、未来を含む世界全体を感じ取ることだからである。いわば自己と世界全体は分割されたものではなく、地続きとなったのである。そしてどちらがどちらかに一方的に影響を与えるのではなく、自己と世界は複雑に絡み合う関係となった。すなわち自分が世界にどう働きかけるかという、主体性の問題と虚無感は消失したのである。



 つまり神との駆け引きにより、世界の存在意義に関わる致命的問題は解決したのである。すなわちまず自分のいない世界を想像することで、自己と世界は分裂した。そして自らの意志で世界に働きかけようとしたが、その意志というものがどこから来るのかわからなかった。そして主体性への疑問と虚無感という、致命的問題を抱えたのである。だが神との駆け引きにより、分裂していた自己と世界はどちらがどちらかに一方的に影響を与えるのではない、複雑に絡み合う関係となった。



私にかかる負荷



 最後に私にかかる負荷の増大について述べる。なぜならそれに耐え得るだけの気力と体力の獲得が、今後の課題だからである。



 神との駆け引きによって、目の前の状況から距離を取れる。なぜなら神との駆け引きとは、目の前の手応えの中に世界全体を感じ取ることだからである。すなわち目の前の状況を、その手応えの一部として相対化できるのである。とはいえもともと人間は、目の前の状況の中だけで生きているわけではない。すなわち空間的、時間的に離れた場所を想像できる。しかし、それも想像に過ぎない。つまりそれだけでは、依然目の前の状況に囚われたままなのである。



 私は目の前の状況に動揺しない。そして常に冷静で、落ち着いている。なぜなら目の前の状況から距離を取るとは、同時に気分や感覚から距離を取ることでもあるからである。なぜなら気分や感覚は、状況に付随して生じるからである。その証拠に具体的状況と関係なく、自発的に怒ったり、悲しんだりは出来ない。そして目の前の状況とそれに付随する気分や感覚と距離を取るとは、それら全体を俯瞰し、自らの気分や感覚とそれに対する思考に自覚的になるということである。



 私にかかる負荷は、より大きくなった。主体性への疑問と虚無感という、致命的問題が解決したにも拘らずである。なぜなら自らの思考や感覚に自覚的になるということは、単に目の前の状況に動揺し、右往左往しているより、思考や感覚の処理工程が多くなるからである。また単なる動揺より、より深く、強烈な体験をしている。しかし、それを異常とは思わない。なぜなら目の前の状況だけに対応するのではなく、全体を俯瞰しようとするのが人間の特質だからである。



 要するに神との駆け引きによって、目の前の状況から距離を取れるようになり、その結果私にかかる負荷が増大したのである。つまりまず目の前の状況を、神との駆け引きという手応えの一部として相対化できるようになった。そしてそれは自らの気分や感覚やそれらに対する思考に自覚的になるということであり、私の感覚や思考の処理工程は膨らみあがった。つまり私にかかる負荷は、大きくなったのである。



まとめ



 つまり神との駆け引きにより、主体性への疑問とそれによる虚無感というこの世界そのものの存在意義に関わる致命的問題は解決したが、同時に私にかかる負荷はより大きくなったのである。なぜなら神との駆け引きという手応えにより、分裂していた自己と世界は複雑に絡み合う関係となり、目の前の状況とそれに付随する気分や感覚に自覚的となることで、感覚や思考の処理工程が増えたからである。そして今後の課題は、その負荷に耐え得るだけの気力と体力の獲得だろう。



ランキングに参加しています。下のバナーをクリックしていただけたら、ありがたいです。


人気ブログランキングへ

Comment
自転車どうですか
体力つくりに
あまり自転車は好きではないんですよね……

今ちょっと立て込んでいるので、
状況が落ち着いたら、いろいろ工夫してみようと思っています。
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

三室戸弘毅

  • Author:三室戸弘毅
  • 40代。男性。
    うつ病をきっかけに、15の頃から20年以上ひきこもってます。
カテゴリー
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
最近の記事
アルバム
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。