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状況認識と意志形成




 今回は状況認識と意志形成について述べる。なぜなら「神との駆け引きとそれによる変化」で述べた神との駆け引きは、無条件で維持されるわけではないからである。つまりやがて世界の意志を見失い、神との駆け引きが成立しなくなったのである。なぜなら虚無感が消えたことで、意志を失ったからである。そしてその状況を解決する鍵が、状況認識と意志の関係である。要するに虚無感が消えるとなぜ意志を失うのか、その意志をどのように取り戻すのかということである。



状況認識と意志形成



 まず虚無感と感覚への意識の集中を例に、状況認識による意志形成について述べる。そして、これが今回の主題となる。



 10代のころは、状況把握という発想がなかった。なぜなら「なぜ虚無感は消えたのか」で述べたように虚無感を抱えていたために、自分もこの世界も単なる雑多な事物の集積にしか見えたかったからである。すなわち自分もこの世界も雑多な事物の集積に過ぎないのなら、その状況について考えることに意味があるとは思えなかったのである。しかし実際にはむしろ虚無感自体が、一つの状況認識といえる。つまりそのような状況認識が、無自覚のうちに形づくられていたのである。



 状況認識により、意志は形成された。つまり虚無感が生み出す強烈な不快感を振り切るだけの集中力を得るために、感覚に意識を集中することにしたのである。なぜならその不快感に手足を縛られている限り、何一つ満足には出来ないからである。いわば虚無感に対抗するだけの強さを作り出そうとしたのである。ちなみに虚無感に苛まれながらも、生きることを決意していた。なぜなら自ら命を絶つことが、これまでの人類の蓄積に対する裏切りに思えたからである。



 感覚に意識を集中しようという意志は、単なる状況への適応とは違う極度に主体的な意志だった。なぜなら集中力や強さを作り出すといっても、そこに具体的で明確な見通しがあったわけではないからである。にも拘らず、あえてそうしようと決意したのである。しかし子供のころは、自分の意志がどこから、どのように来るのかがわからなかった。そして、そのことが虚無感を生んだ。だが先に述べたように、虚無感という状況認識により意志が形づくられたのである。



 つまり状況認識により、意志は形づくられるということである。とはいえ10代のころは虚無感を抱えていたために状況把握という発想はなかった。しかし実際には虚無感という状況認識が、無自覚のうちに形づくられていたのである。そしてそれにより、感覚へ意識の集中という意志が形づくられた。またそれは極度に主体的な意志だった。なぜなら具体的な見通しがあったわけではないにも拘らず、そうしようと決意したからである。



意志の喪失



 次に虚無感の消失によりなぜ意志を見失ったのか、その状況において何が必要かを考える。



 虚無感という状況認識は崩れた。なぜなら「なぜ虚無感は消えたのか」や「神との駆け引きとそれによる変化」で述べたように、虚無感そのものが消失したからである。つまり虚無感とは、否定しようのない事実だと思っていた。だから無意味な世界で、無意味な人生をどう生きるかが、人類共通の課題だと考えていたのである。そしてその虚無感に対抗するための、強さを獲得しようとした。しかしその紛れもない事実だと思っていた、虚無感が消えてしまったのである。



 意志を見失った。なぜなら、虚無感を失ったからである。つまり先に述べたように、状況認識により意志は形づくられる。したがって虚無感という状況認識の崩壊は、意志の喪失を意味していたのである。また自らの意志によって、「神との駆け引きとそれによる変化」で述べた世界の意志は見い出される。なぜなら自らの意志の影響を測るために、世界の変化に敏感になるからである。そして自らの意志と世界の変化の関係に気づくことで、世界の意志を発見する。



 新たな状況認識が必要であるという、状況認識を得た。なぜなら状況が把握できなければ、意志を形づくることができないからである。また意志がなければ世界の意志を読み取れず、神との駆け引きが成立しない。また先に述べたように、かつては状況把握という発想自体がなかった。だから虚無感という状況認識は、無自覚のうちに形成された漠然とした認識だった。しかし状況把握の必要性を認識した以上、新たな状況把握はより自覚的で精緻なものにならざるを得ない。



 要するに否定しようのない事実だと考えていた虚無感という状況認識が消えたことで、意志を見失ったのである。なぜなら状況認識により、意志は形づくられるからである。そして新たな状況認識が必要であるという、新しい状況認識を得た。すなわち状況が把握できなければ、意志を形づくることができないのである。そして意志がなければ世界の意志を読み取れず、神との駆け引きが成立しない。



学問という意志



 最後に先に述べた新たな状況把握に、必要なものは何なのかを述べる。そして、すなわちそれが学問である。



 子供のころの学問への志向のきっかけは、好奇心だった。しかし好奇心というただの欲求では、それがどこから来るのかわからない。つまりその欲求を満たしたところで、結局自分が何をしたいのかわからないのである。そして中学生になるころには、好奇心だけでは意欲を支えられなくなった。だが、今は自分が何をしたいのかとは考えない。なぜなら先に述べたように意志とはどこかからやって来るものではなく、状況認識により生じるものだと知ったからである。



 そして、学問という意志を獲得した。つまり先に述べたように、新たな状況把握はより精緻で自覚的なものでなければならない。すなわち、それは自分を含むこの世界に対する認識を自覚的に組み立てることである。また、そのためにさまざまな知識と技術も必要だろう。そして、それが私にとっての学問である。つまり、学問とは自覚的に思考を組み立てることである。要するに学問は子供時代の漠然とした好奇心から、より強く明確な意志となったのである。



 失っていた意志と、学問への志向を取り戻した。また私の学問への志向は、主体的な意志である。なぜならそこに具体的な見通しはないにも拘らず、敢えてそうしようとしているからである。そして、それはかつて感覚に意識を集中したときと同じである。したがって感覚への集中が虚無感を消失させたように、学問により新たな状況が生じるはずである。そして新たな意志により、世界の意志が改めて見い出され、神との駆け引きが再び成立するだろう。



 つまり子供時代のどこからやって来るのかわからない漠然とした好奇心による学問への志向が、より強く明確な意志になったのである。すなわち、見失っていた意志と学問への志向を取り戻したのである。なぜなら先に述べた状況把握とは、自分と世界に対する認識を自覚的に構成することであり、そのためにさまざまな知識と技術が必要だからである。そして新たな意志により、世界の意志が見い出され、神との駆け引きが可能になると考える。



まとめ



 要するに無自覚のうちに形づくられた虚無感という状況認識により感覚への意識の集中という意志が形成されたが、虚無感という状況認識が崩れたために意志を見失ったのである。そして新たな意志を得るには新たな状況認識が必要であるという、新しい状況認識を獲得した。そして状況把握とは自分と世界に対する認識を自覚的に構成することであり、そのためには学問が必要である。つまり、見失っていた意志と学問への志向を取り戻したのである。



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