FC2ブログ
HOME   »  スポンサー広告  »  スポンサーサイト   »  考察  »  再考・感覚への意識の集中

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


ランキングに参加しています。下のバナーをクリックしていただけたら、ありがたいです。


人気ブログランキングへ

再考・感覚への意識の集中




 今回は感覚へ意識の集中を、捉え直してみる。確かに「神との駆け引きと学問」で感覚への意識の集中は、虚無感という世界観が生んだ意志であると述べた。そしてそれは虚無感が生む不快感に対抗する強さを、作り出すためのものだった。しかしそれが単にそれだけのものとは、思えなくなったのである。ちなみに今回は、かなり抽象的な内容となる。そして具体的な感覚や思考の変化は、今後述べようと思う。



虚無感の崩壊



 まず虚無感の崩壊の過程で、感覚への意識の集中がどのように機能したのかを見てみよう。



 虚無感という世界観は、無意味で苦痛に満ちた人生に耐え得る気力と気概といった強さを要求した。つまり虚無感は強烈な不快感で全身を覆い、ついには意識があるだけで苦しく、身体を起こしているのも辛くなったのである。そして食事をする以外は、ほとんど寝ているような生活を余儀なくされた。だから虚無感が生む不快感に対抗する強さを得るために、感覚に意識を集中したのである。そして感覚に意識を集中することで、虚無感は崩壊した。



 感覚に意識を集中することで、自らの世界観全体を把握した。つまりまず感覚への意識の集中により、今ここにある肉体の感覚、すなわち今ここに自分が存在するという現実感は明瞭化するとともに客観化した。そして客観化するとは、その対象から距離を取るということである。つまり今ここに自分が存在するという現実感の外側に出て、世界に対する俯瞰的視点を獲得したのである。そして世界に対する俯瞰的視点を得るとは、自らの世界観全体を把握するということである。



 感覚に意識を集中することで、虚無感という世界観は崩壊した。なぜなら「神との駆け引きと学問」で述べたように、虚無感とは自分の意識全体を見通せないということに起因していたからである。そして意識の内容とは、世界観である。つまり先に述べたように感覚に意識を集中することで、世界観全体を把握できるようになり、その結果虚無感の原因がなくなったである。そして食事以外は寝ているような最悪な状態からは、抜け出せた。



 つまり虚無感は無意味で苦痛に満ちた人生に耐え得る強さを要求し、虚無感が生む不快感に対抗する強さを得るために感覚に意識を集中したのである。そしてその結果、虚無感は崩壊した。なぜなら虚無感の原因は自らの意識全体を把握できないことであり、意識の内容とは世界観である。そして感覚に意識を集中することで、世界観の把握が可能となったのである。すなわち感覚に意識を集中することで、世界に対する俯瞰的視点を獲得したのである。



世界観の流動性



 次に世界観が静止したものでなく、常に変化するものであることを述べる。とはいえ「神との駆け引きと学問」を書いた時点では、虚無感に代わる確定的な新しい世界観を予想していた。



 感覚への意識の集中により把握される世界観は、確定的で強固な事実というより、瞬間瞬間の直観的で流動的なものだった。しかし、世界とは単なる雑多な事物の集積であり、何をしたところで何かを右から左に動かしたり、左から右に動かしたりしているに過ぎないという虚無感は、子供の私には確定した強固な事実に見えていた。そしてかつての虚無感からの連想により、何か新たな確定的世界観の生起を予想していたのである。



 発想の逆転が生じた。つまりまず子供のころは世界観とは、知識を体系的に組み立てて作るものだと思っていた。しかし感覚に意識を集中することで、自分の世界観全体を把握できるようになった。とはいえそれはあくまで直観的把握であり、概念的に多くの曖昧さと矛盾を含んでいる。そしてそれらを埋めるには、知識が必要である。すなわち知識を組み立てて世界観を形づくるのではなく、むしろ世界観は直観により予め与えられ、それを概念化するために知識が必要なのである。



 世界観は確定的で静止したものでなく、常に変化するものである。つまりまず感覚への意識の集中で得られる世界観は、瞬間瞬間の直観的で流動的なものである。またそれを概念化した世界観も、今の私にはその理由を説明できないが、常に曖昧さと矛盾を含み、修正を要求する。ちなみに当初は確定的で強固な世界観が、生成と崩壊を繰り返すのかと予想した。しかしどうやらそれが直観的であれ、概念的であれ、世界観は段階的に変化するのではなく、常に変化するもののようである。



 要するに、発想の逆転が起きたのである。すなわち子供のころは知識を体系化して世界観は構築するものだと考えていたが、むしろ世界観は直観により予め与えられ、それを概念化するために知識が必要なのである。そして感覚への意識の集中により把握される直観的世界観は、瞬間瞬間の流動的なものである。またそれを概念化した世界観も、常に曖昧さと矛盾を含み、修正を要求する。つまり直観的であれ、概念的であれ、世界観は常に変化するものなのである。



世界観を統制する意志



 最後に感覚への意識の集中が、世界観を統制する意志であることを述べる。そしてそれが今のところの、私の感覚への意識の集中に対する認識である。



 感覚への意識の集中は、世界観を統制する強大な意志である。確かにそれは虚無感という世界観がきっかけで生まれた。また「神との駆け引きと学問」で、世界観から意志が生まれると述べた。しかし、それは無自覚な世界観に無自覚に従っている段階でのことである。つまり感覚への意識の集中による世界観の把握により、世界観から意志が生まれるのではなく、むしろ世界観はその整合性を高めるべく意志の統制下に入るのである。



 「神との駆け引きと学問」で述べた神との駆け引きは、世界観というより感覚への意識の集中という行為の機能と考えた方が適切である。なぜなら感覚への意識の集中とは自分が何を感じ、考えているのかということに対する自覚であり、世界観の把握はその機能だからである。つまり「神との駆け引きと学問」で、神との駆け引きによって世界全体を感じ取ると述べた。そして世界全体を感じ取るとは、世界観を把握するということなのである。



 感覚への意識の集中により、世界観は常に直観的に予め与えられる。しかしかつてはそれが上手く出来ず、虚無感という確定された強固な事実であるかのような錯誤が生じたのである。また先に述べたように、世界観は常に変化するものである。だが虚無感という確定した強固な事実であるかのような世界観から連想して、虚無感に代わる新しい確定した世界観を予想したのである。そして、それが神との駆け引きである。しかし、それは感覚への意識の集中という行為の機能である。



 つまり感覚への意識の集中とは、世界観を統制する意志なのである。すなわちそれにより世界観を把握することで、世界観は意志の統制下に入るのである。また感覚への意識の集中により、世界観は常に直観的に予め与えられる。そして虚無感という確定的であるかに見えた世界観から連想して、虚無感に代わる新しい確定した世界観を期待した。それが神との駆け引きである。しかしそれは世界観ではなく、感覚への意識の集中という行為の機能である。



まとめ



 要するに感覚への意識の集中とは、世界観を統制する意志なのである。まず当初それは虚無感が生む不快感に対抗する強さを作り出すために、虚無感という世界観から生まれたかに見えた。しかし感覚への意識の集中による世界観の把握により、世界観はむしろその意志の統制下に入るのである。そして世界観は常に直観的に予め与えられるものであり、また常に変化する流動的なものである。つまり虚無感に代わる、新たな確定的世界観が得られるわけではないのである。



ランキングに参加しています。下のバナーをクリックしていただけたら、ありがたいです。


人気ブログランキングへ

Comment
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

三室戸弘毅

  • Author:三室戸弘毅
  • 40代。男性。
    うつ病をきっかけに、15の頃から20年以上ひきこもってます。
カテゴリー
月別アーカイブ
最近のコメント
最近のトラックバック
最近の記事
アルバム
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。