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ひきこもりと虚無感崩壊




 今回はひきこもりと虚無感の崩壊との関係を述べる。結論から言えば、ひきこもり生活によって、虚無感は崩壊したのである。そしてそれが重要である。なぜならひきこもりによる挫折と孤独により、それまで意識しなかったことを考えるようになり、そのことが私を変えたからである。とはいえそれでもさまざまな問題が残った。それらについては、今後考えようと思う。



子供時代の虚無感



 まず子供のころ抱えていた虚無感について、改めて述べておく。



 子供のころ、虚無感を抱えていた。それは多くの人間が感じる、ままならない人生へのさみしさやむなしさとは違う、人生が上手くいくとか、いかないとかいう以前の根源的問題だった。当時の私にとって世界は単なる雑多な事物の集積だった。何をしたところで何かを右から左に動かしたり、左から右に動かしたりしているに過ぎなかったのである。また私は、意識という得体の知れない内部構造に操られる単なる肉と骨の塊だった。



 考えれば考えるほど、虚無感は募った。そもそも意識というものを、明確に定義できなかった。例えばそれは思考や感情が生じては消える場なのか、それとも思考や感情といったものの総体なのか。またもとよりそれがどこにある、何なのか全くわからなかった。にも拘らずまるでそれが、自分の自己同一性を保証しているかのようにも感じられた。しかし同時に昨日の自分と今日の自分が同じものとは証明しようがなく、自己同一性というものに深い疑念を抱いていた。



 虚無感は強烈な不快感を伴っていた。頭は常に鉛が詰まったように重く、目の奥が締めつけられるように痛かった。また肩や背中や腰に鈍い痛みがあった。そして身体全体が重く、何もかもが面倒だった。やがて虚無感はどこまでも拡大し、自分を支えようにもそもそも目の前の心と体を自分とは感じられなくなった。そして意識があるだけで苦しく、身体を起こしているのも辛くなり、家にひきこもるようになった。



 子供のころ抱えていた虚無感は、ままならない人生へのさみしさやむなしさとは違う、それ以前の根源的問題だったのである。いわば世界は単なる雑多な事物の集積であり、私は肉と骨の塊に過ぎなかった。そして考えれば考えるほど、虚無感は募った。意識というものを、明確に定義できなかったからである。またその虚無感は強烈な不快感を伴っていた。やがて自分を支えようにも、そもそも目の前の心と体を自分とは感じられなり、ひきこもった。



具体的な個人としての自分



 つぎにひきこもりによる挫折と孤独により、具体的な個人としての自分を意識するようになったことを述べる。それが後に述べる自己イメージの相対化に繫がる。



 ひきこもり生活は、具体的な個人としての私を強く意識させた。挫折と孤独を感じたからである。つまり私の人生も他人や社会との関係も、子供のころ考えていたものとは全く違ったものとなったのである。そのことが、自分が何者で、他人からどう見えるのかということに目を向けさせた。しかし子供のころは個人としての自分を意識することはなかった。学者志望だったからである。学問をするにおいて、自分がどんな人間かなどということはどうでもよいことに思えたのである。



 初めて個人的心情を意識した。ひきこもりによる挫折と孤独は、個人的問題であり、個人的心情である。しかしかつては個人的心情に興味はなかった。なぜなら虚無感を抱えていたからである。それは自分の意識全体を把握できないという絶望だった。そしてそれを意識の構造的問題であり、個人的心情といった意識の内容の問題ではないと考えていたのである。またそれは私個人の問題ではなく、人類共通の問題だとも思っていた。



 目の前の具体的な感情や気分から始めるしかない。意識やその構造という漠然としたことを考えていても、埒が明かないのである。ひきこもりによる挫折と孤独がそう感じさせた。そして自分が他人からどう思われるのか、それを自分はどう感じるのか、そう感じている自分を私はどう考えるのか、それら全体を踏まえてではどうするのかといった思考の連鎖が生じた。それが「なぜ虚無感は消えたのか」や「再考・感覚への意識の集中」で述べた感覚への意識の集中である。



 かつては具体的な個人としての自分や、個人的心情を意識することはなかった。しかしひきこもりによる挫折と孤独により、それらを強く自覚するようになったのである。ひきこもりによる挫折と孤独は、個人的問題であり、個人的心情だからである。そして意識やその構造という漠然としたことを考えるのではなく、目の前の具体的な感情や気分から始めるしかないと考えるようになった。それが感覚への意識の集中である。



虚無感の崩壊



 最後にひきこもりによる挫折と孤独が、どのように虚無感を崩壊させたのかを述べる。しかしそれで全てが解決したわけではなかった。



 自己イメージは世界観を構成する一要素として相対化された。ひきこもりによる挫折と孤独が具体的な個人としての自分を意識させ、自分が何者で、何を考えているのかを深く考えさせたからである。それは自分は何者かという自己イメージを明瞭化、客観化した。客観化するとは対象から距離を取ることであり、そうすることで自己イメージは相対化されるのである。そして世界観は自分は何者かという自己イメージを含む。なぜなら私は世界の一部だからである。



 ひきこもりによる挫折と孤独が、虚無感を崩壊させた。それらにより具体的な個人としての自分を意識し、自己イメージが相対化されたからである。今ここにいるという感覚から離れ、世界に対する俯瞰的視点を得たのである。なぜなら自己イメージは、自分が今ここにいるという感覚を基盤としているからである。そして「再考・感覚への意識の集中」で述べたように、世界に対する俯瞰的視点の獲得により、虚無感は崩壊する。



 虚無感の崩壊により、全てが解決したわけでなかった。子供のころは他人や社会との関わりは、当たり前のように存在した。だからそれについて、深く考えることはなかった。しかしひきこもることでその当たり前のものを失い、挫折と孤独を感じた。そのことで、他人や社会との関わりを自覚的に考えるようになった。そして私をひきこもらせた虚無感が消えても、何のために、どのように他人や社会と関わるのかという問題が残ったのである。



 ひきこもりによる挫折と孤独が具体的な個人としての自分を意識させ、自分が何者かという自己イメージは世界観を構成する一要素として相対化された。そして今ここにいるという感覚から離れ、世界に対する俯瞰的視点を得たのである。その結果、虚無感は崩壊した。しかしかつて当たり前のように存在した他人や社会との関わりは失われ、何のために、どのように他人や社会と関わるのかという問題が残された。



まとめ



 子供のころ虚無感を抱えていた。考えれば考えるほどそれは大きくなり、やがて家にひきこもった。そしてひきこもりによる挫折と孤独が、具体的な個人としての自分を意識させた。目の前の具体的な感情や気分から始めるしかないと感じるようになったのである。それは自己イメージの相対化を意味し、世界に対する俯瞰的視点を得た。その結果虚無感は崩壊した。しかし他人や社会との関わりは失われ、何のために、どのように他人や社会と関わるのかという問題が残されたのである。



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