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世界観という一貫した問題




 今回は今取り組むべき課題について、考える。かつては虚無感という対処すべき明確な課題があった。しかしそれはやがて崩壊した。虚無感に苛まれているときは、生きることに意味を見い出せずにいた。虚無感とは生きることに意味を見い出そうとして、見い出せない絶望だった。生きることに意味を求める情熱の裏返しだったのである。そして虚無感の崩壊により、その情熱を失ったと感じた。しかし課題を改めて明確にすることで、情熱を取り戻せると思う。



虚無感とその崩壊



 まずかつて抱えていた虚無感と、その崩壊について述べる。



 自分の意志がどこから来るのかわからなかった。意志が生じては消える感情や感覚により形づくられるのなら、それらの感情や感覚は自分の意志で生み出しているわけではないという意味である。また意志や感情や感覚が意識の内容だとすれば、それらがどこから来るのかわからないのだから、自分の意識全体を把握できていないことになる。だから私は意識という得体の知れない内部構造に操られる、動く肉と骨の塊でしかなかった。



 虚無感を抱えていた。単なる肉と骨の塊である私にとり、世界もまた無意味な雑多な事物の集積に過ぎなかったのである。その認識は強烈な不快感を伴っていた。当初はそれを意識全体を把握できないという、意識の構造的問題と捉えた。しかしそもそも「意識」という言葉は曖昧で、それがどこにある何なのか明確に定義できない。そして、明確に定義できないものについて考えるのは不可能だった。したがって、この問題は袋小路に思えた。



 やがて虚無感は崩壊する。始め虚無感を簡単に解決できるようには思えなかった。だからとりあえず虚無感が生み出す強烈な不快感を振り切るだけの集中力を得るために、感覚に意識を集中したのである。すると虚無感自体が消失した。当初は何が起きたのか理解できなかった。だから虚無感が消えると、問題が解決したというより、むしろ感じたのは、虚無感の中で気分や感覚を弄んでいただけではないのかという冷めた失望だった。



 つまりかつて自分の意志がどこから来るのかわからず、虚無感を抱えていたのである。そして感覚に意識を集中することで、それは崩壊した。意志がどこからやって来るのかわからないということは、意識全体を把握できないということであり、私は意識という得体の知れないものに操られる肉と骨の塊に過ぎなかった。そしてその認識が生み出す不快感を振りきるために、感覚に意識を集中したのである。しかしなぜ虚無感が崩壊したのかは、すぐにはわからなかった。



虚無感と世界観



 虚無感の崩壊直後は、何が起きたのかわからなかった。では今はそれをどう捉えているのか。次にそれを述べる。



 世界に対する俯瞰的視点を得た。つまりまず感覚に意識を集中することで、目の前の状況の中で自分が何を感じ、考え、どう行動するかという自覚が生じた。それが自己イメージである。そして、自己イメージが明確に対象化された。対象化するとはその対象から距離を取ることである。つまり、今、ここにいるという現実感の外側に出て、世界に対する俯瞰的視点を得たのである。今、ここにいるという現実感が、自己イメージの根幹だからである。



 自己イメージ、それと不可分である目の前の状況は、世界観を構成する一要素として相対化される。自己イメージと目の前の状況は不可分なものである。ここでいう自己イメージとは、目の前の状況の中で自分が何を感じ、考え、どう行動するかという自覚だからである。そして自己イメージは世界観の一部である。私は世界の一部だからである。また因果律で結ばれた過去、現在、未来、それら全体を世界と呼ぶなら、目の前の現在の状況はその一部である。



 世界に対する俯瞰的視点の獲得により、虚無感は崩壊した。虚無感は世界観の問題である。この世界と何の関連もないものについて考えることは出来ない。したがって意識の内容とは、この世界をどう感じ、考えるのかという世界観である。意志も感情も感覚もその一部である。だから意識全体を把握できないという問題は、世界観を把握できないという問題である。直観である俯瞰的視点は世界観と呼ぶには精緻さに欠けるが、少なくとも可能性は生じたのである。



 要するに感覚に意識を集中することにより、世界に対する俯瞰的視点を得、虚無感は崩壊したのである。目の前の状況の中で自分が何を感じ、考え、行動するのかという自己イメージが生じ、それが対象化されたのである。虚無感とは世界観の問題であり、俯瞰的視点は世界観とはいえないが、少なくとも世界観の把握の可能性は生じたのである。そして自己イメージと目の前の状況は不可分なものであり、それらは世界観を構成する一要素として相対化される。



世界観の把握



 最後に今取り組むべき課題について考える。それが世界観の把握である。



 不満を感じ始めた。虚無感に苛まれているときは、それは目下取り組んでいる課題であり、いまだ成功も失敗もなかった。しかしそれを失うと、それによって上手くいかなかったさまざまなことが、思い出されたのである。そして今までの自分では上手くいかなかったのだから、いまだかつてない自分を作り出さねばならないと感じた。だが頭を悩ませるべきは、そこではない。虚無感もそれにより上手くいかなかったことも、世界観の問題から派生した副次的問題だからである。



 今までと違う自分を求めれば、俯瞰的視点を失う。それは、今ある自己イメージとそれと不可分である現在の状況を拒絶することだからである。つまり自己イメージと現在の状況を否定することで、感覚に意識を集中しても、自己イメージを対象化できない。それでは状況から生じた気分や感覚を状況から切り離し、ただ弄んでいるだけである。そして不満と焦りが募るばかりで、何が問題で、何をすべきかわからない。



 一貫して世界観の把握が課題なのである。世界に対する俯瞰的視点の獲得により虚無感が崩壊したといっても、それは世界観の把握の可能性でしかない。虚無感は世界観の問題へと発展的に解消したのである。過去の経験が役立たない新たな局面に立ったのではなく、世界観の把握という一連の連続した段階の中にいるのである。したがって今までの自分を土台にして現在の状況に対処すればいいのであり、過去を否定し、新しい自分を作る必要はない。



 つまり虚無感もそれにより上手くいかなかったことも、世界観の把握が上手くいかないことから生じた二次的問題であり、一貫して世界観の把握が課題なのである。世界観の把握という一連の連続した段階の中に、私はいる。しかし虚無感を失うと、不満を感じるようになった。そしていまだかつてない自分を作ろうと考えた。それでは今ある自己イメージを否定することになり、自己イメージを対象化し、俯瞰的視点を得られなくなる。



まとめ



 虚無感とは世界観の問題であり、世界観の把握こそが根本的課題なのである。かつては意識全体を把握できず、虚無感を抱えていた。意識の内容とは、世界観である。やがて虚無感は消えた。感覚に意識を集中することで、世界に対する俯瞰的視点を得たからである。しかし虚無感が消えると、過去のさまざまなことを失敗として思い出した。しかし頭を悩ませるべきはそこではなく、世界観なのである。俯瞰的視点は世界観の把握の可能性に過ぎず、一連の連続した段階の中に私はいる。



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